社会福祉法人 感恩講児童保育院

歴史

感恩講の歴史

感恩講誕生


感恩講創設者 那波祐生
(1772-1837)

文政10年(1827)大晦日、当時の秋田藩町奉行橋本五郎左衛門は年末の挨拶に訪れた藩御用町人、那波祐生(第8代那波三郎右衛門)に、藩主佐竹義厚侯の意向として困窮者救済の資金調達方法について検討を求めました。
家業の不振により艱難辛苦の幼少時代を過ごし、自らも困窮者救済の志を強く抱いていた那波祐生は、資金を集めて知行地(年貢の徴収権を認めた土地)を買い入れ、そこから生じる毎年の年貢により救済事業を永く続けるという方法を考え出し、文政11年(1828)自らの私財と同士とともに集めた金400両を藩に献上して、この方法を申し出て藩の賛意を得ました。
救済事業を実現させるために那波祐生は同士とともに奔走した結果、72名の賛同者を得て金1,000両・銀10貫匁の資金が集まりました。活動としては、平年は困窮者救済に、凶作時には飢餓に苦しむ人々の救済に取り組み、また恒久的に事業を続けるために毎年の収入の一定額を蓄積することとしました。こうした活動に多くの一般町民か らの献金もあり、文政12年(1829)2周には献金者が191名となり、資金も金2,000両・ 銀10貫匁となり、いよいよ知行地を買い入れ財政基盤が出来上がりました。この年文政12年(1829)、藩よりこの団体に「感恩講」という名称が与えられました。

江戸期

◆感恩講は本町六丁目(現大町六丁目・感恩講街区公園)に事務所を設け、救済の規則を作り、救済の必要性を調査する人員を置くなど組織づくりに着手しましたが、知行地による収入がまだない創設の年、凶作による米価高騰が起こり、感恩講の役員から寄付を募り、藩の援助も得て困窮者への施米を初めて行いました。

◆天保2年(1831)には備蓄米保管倉庫を建築しました。この倉庫も町民有志の金銭、木材などの寄付、さらには労働奉仕、藩の援助もあり予算の半分で完成しました。

◆天保3年(1832)、基礎が出来上がった感恩講を藩に寄付しようとする動きもありましたが、町奉行江間郡兵衛の「上下の関係なく平等の立場で、町民相互が助け合い、守り合っていく形に」という助言のもと、町民による財産管理、救済事業運営を決めて、条規を定めて藩に報告し了承を得ました。

◆天保4年(1833)、秋田は天保の大飢饉に見舞われます。翌5年にかけて飢えた農民は食料を求めて城下に集まり、飢餓や病気で多くの死者が出ました。『秋田飢饉誌』によれば、「通町橋から六丁目橋の下まで、橋の下は集まった浮浪者でいっぱいとなった。死人をむしろに包んで背負いながら歩くもの・・・途中で子どもを捨ててたどり着いた親など様々であった。通町橋など午前十時ごろになると、200人以上もの浮浪者が橋の両側に立ち並んで物乞いをし、通行もままならないほどであり・・。」とあります。 このような状況下、感恩講は資金も不十分のなかで救助を求めてきた約一千戸の人々に施米し、病人には薬代、医療費を、死んだ人のためには埋葬料を与え、 孤児には保育の世話もしました。こういった不眠不休の活動を行い、この飢饉中に感恩講が施米した延べ人数は43万人にも達しました。

◆天保6年(1835)、飢饉の影響もようやく治まり、藩は感恩講の救済活動の功績をたたえ、感恩講の知行地に限り歩合なしとして、 それを元手に備蓄に励み今後大凶荒があっても救済活動に支障がないようにとのお達しを出しました。


天保年間建築の備蓄米倉庫

◆天保8年(1837)、感恩講の救済事業の対象地域は主に城下の外町(商人・職人の町)が中心でした。そこで那波祐生は、久保田城下のみならず秋田藩の各郡においても救済事業を興すべきと藩に進言しますが、この年66歳で亡くなります。感恩講の救済事業・那波祐生の意志は、幾度の財政困難に直面するも、多くの町民からの寄付と資産増殖により受け継いだ人々によって幕末、そして明治時代へとつなげられました。

明治期以降

明治期の感恩講
施米の様子

感恩講跡地の石碑

◆明治4年(1871)廃藩置県に続く明治6年(1873)の地租改正令により、感恩講の財政基盤である知行地は藩の財産とみなされ没収されて事業継続の危機を迎えます。しかし感恩講の趣旨を粘り強く新政府に訴え続け、数年後には明治政府から資金を得て、新たに田地を購入して救済事業を継続することができました。

◆時代の移り変わりを経て、それまで創設者の精神のもと年番(世話人)の誠意と信頼により創設以来の慣行で事業を行ってきた感恩講は、理念や管理運営規則を32条から成る『感恩講慣例』として成文化し、明治25年(1892)・明治31年(1898)に刊行しました。この『感恩講慣例』の制定にはフランス人で明治政府の法律顧問であり、感恩講活動へ深く理解を示したボアソナード博士の協力がありました。

◆明治31年(1898)、感恩講は民法上の「財団法人(公益法人)」として認可されました。

◆明治35年(1902)、f感恩講慣例』の補足に加え、歴史や意義を著した『感恩講慣例義解』を刊行。

◆明治38年(1905)、平福百穂画『感恩講図巻』刊行。

◆明治38年(1905)、児童保育事業開始。(感恩講児童保育院については沿革参照)

◆明治41年(1908)、感恩講のそれまでの歴史をまとめた『感恩講誌』刊行。

◆感恩講の救済事業は大正・昭和と続きますが、昭和22年(1947)、農地解放により財政基盤が失われて困窮者救済事業を終えざるを得ませんでした。しかし戦後児童養護は一層必要性を増して、児童保育事業はその後も継続され、文政12年から続く感恩講精神は感恩講児童保育院において今日まで脈々と受け継がれています。

感恩講児童保育院 沿革

明治35年(1902) 感恩講視察に訪れた、井上友一内務書記官の 貧困児救育に関する進言を得て調査研究に着手します。
明治36年(1903) 「窮民の子弟を収容してこれに衣食を与え、教育を施し、 独立自営の途を立てさせることが貧困児救育の有効な方法である」 との事業理念を確立し、児童保育院規則を作成して保育院開院への道を進めました。
明治38年(1905) 内務省より設立許可を受け、12月18日保戸野諏訪町にて 児童5名を収容して児童保育院事業を開始しました。 (明治39年4月14日内務大臣、県知事等を迎えて開院式を挙行)
明治44年(1911) 中亀ノ丁(現在の南通り)に新築移転。 40名を収容し、院内で義務教育を実施しました。 enkaku明治44年新築の保育院
enkaku 院内義務教育風景
enkaku 院内での職業教育
大正13年(1924) 一般児童と同ーの教育環境をと、院内教育を廃止し 児童は市内4学校に通学となりました。
昭和11年(1936) 保育院内に保育所を併設して乳幼児保育を開始 しました。(昭和21年まで継続)
昭和22年(1947) 農地制度改革により、感恩講の保有農地は解放され、 感恩講の財政基盤が失われて保育院事業も継続の 危機を迎えますが、関係者の努力により事業を継続 することができました。
昭和23年(1948) 新法児童福祉法の施行により、 定員50名の「養護施設Jとして認可を受けました。
昭和27年(1952) 社会福祉事業法の施行とともに、感恩講は社会福祉法人として認可されました。
昭和32年(1957) お年玉つき年賀はがきの配分金と自己資金により 増床して定員80名となりました。  
昭和39年(1964) 自己資金により児童保育院を現在地の寺内に新築移転しました。 enkaku 昭和39年現在地に竣工した保育院
昭和57年(1982) 高齢児童の養護充実を図るため、児童個室の設置、 児童玄関、面談室の改築・増築をしました。
昭和58年(1983) この年の6月に児童保育院創立以来の入所児童が 1,000名となりました。
平成17年(2005) 児童保育院創立100周年を記念して、児童に夢や希望をと記念旅行を実施しました。
(中高生は神戸と名古屋の万国博覧会見学、小学生は岩手県「けんじワールド」「小岩井農場」、 幼児は雄和でのぶどう狩りと夕食会の食材お買い物体験、院での夕食会)
平成25年(2013) 現在地に小規模グループケアの対応が可能な院舎を2棟新設。 現在児童数54名。
平成29年(2017) 定員を45名にする。現在数は42名。
平成30年(2018) 研修会議棟を新設

研修会議棟「ウルトラホール」新設 研修会議棟「ウルトラホール」新設
研修会議棟

平成25年施行の保育院
平成25年竣工の保育院
遠藤幸雄氏
ローマ・東京・メキシコオリンピックで、三大会連続金メダリストとなった故遠藤幸雄氏は、中学・高校と当院で過ごした卒院生。

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